天山 を想って                              

早春まで残る天山の雪を眺めながら「今年は豊作だ」と言っていた祖父の言葉の意味が、幼少期の私には理解できなかった。伊万里からは遥か遠くに天山が望める。その山名も相俟(あいま)って、秀麗な姿に神々(こうごう)しささえ感じていた。米の専業農家であった祖父が、秋の稲作の出来具合を天山に祈っていたのだろうと幼い私は思っていた。

大人になって、天山を様々な方向から眺める機会が多くなった。その冠雪した姿は、高度感があるものの、かつての神々しさを感じない。感受性の衰えなのだろうと(あきら)めていたところ、今年の正月には、久し振りに伊万里から(もや)のかからない天山が望めた。かつて畏敬(いけい)の念さえ感じていた天山である。(いただき)双耳(そうじ)(ほう)で、孤立峰にさえ見える天山の冠雪した雄姿であった。帰郷という感傷のなせる(わざ)とは思いつつも、天に(そび)える山というに相応(ふさわ)しい山容である。佐賀県の中央に鎮座する天山の眺めは、遠く離れた伊万里からの眺めが最も美しく、天下髄一の山であるとひそかに自慢であった。

それはさておき、天山の雪から、祖父が米の豊作を予測したのは、冬場の冷え込みの厳しい年には、地中の病害虫が死滅するため、秋の豊作を予想していたということのようである。北アルプスの白馬(しろうま)(だけ)の東斜面に雪の程度に応じて現れる白馬の模様により、作物の豊作の有無を予測したことに似ている。

長年、山登りを趣味としていたわりには、天山に登る機会はなかなか訪れなかった。南北の両方から山頂間際まで車道が通り、わずかに草原の中を歩くだけと聞き、登山としての魅力を感じ得なかったこともさる事ながら、幼少期から抱いていた崇高な天山へのイメージが崩れることへの抵抗もあった。

昨年初秋、友人の誘いもあって、七曲峠から植物観察を兼ねて登る機会ができた。樹林におおわれたトンネル状の登山道は広く明るい(ゆる)やかな上りであった。清々(すがすが)しい森林浴を堪能しながら上った。ヤマボウシ、イボタノキ、イチヤクソウなどの花も迎えてくれた。一方では、強烈な皮膚炎を起こすヤマウルシの葉を避けたり、興味本位で猛毒のタンナトリカブトの葉を探してみたりと、感激と興奮のあまりよそ見ばかりして歩いていると何度か滑ったり、(つまづ)いたりした。

その結果、古い登山靴の底が前の方からカパカパと開き始めたのである。構わずにそのまま歩いていると、ほどなく底は全部はずれてしまい、手持ちの(ひも)(しば)ってはみたものの歩きづらい。「えぇい 面倒だ」と靴底をはずして歩いた。足裏の痛さと左右のバランスの悪さにはひどく閉口した。やむなく途中で下山することとなり、天山への初登頂はまぼろしに終わったのである。

また、若い頃に読んだ石川達三の『青春の蹉跌(さてつ)』が、天山での悲しい出来事を素材にしたこともあらためて思い出され、一層近寄りがたいものとなった。

そんなこともあって天山は、随分セピア色に色褪せては来たものの、私の中では、未だに幼少期に眺めていた天下髄一の山のままに屹立(きつりつ)として聳えているのである。祖父もまた天山を正面に眺めつつ、郷里の丘の上で安らかに眠っているのである。           







2008.2月号 掲載

2008.3月号 掲載

巨樹を巡る

しばしば私は無性に巨樹に会いたくなる。長い年月の風雪に耐え、深いしわを携えながらも、悠々と生き抜いている巨樹・古木に(いや)されに行くのである。
 巨樹といえそうな大木は自然の豊かな山中に多いように思われがちだが、実際に歩いてみると、案外、山中には大木は少ない。
 自然林には、人の手の入ったことのない純粋な自然林とかつて何度か人の手が入ったことのある二次自然林とがある。県内の多くの自然林は後者である。木材用、燃料用の薪、炭焼き用の原材料などとして利用されたのちに放置されたものと思われる。純粋な自然林は、背振山地、黒髪山、多良山地などにわずかに残るのみであり、それも樹木が大きく生育するには厳しい自然環境のところに限定される。その様な条件のもとでは、倒木や立ち枯れによって多くの巨樹は消失してしまったものと思われる。
 それにしても佐賀県には、意外に巨樹が多い。中でも、武雄市(かわ)()の大クス、(しも)合瀬(おうせ)のカツラ、有田の大イチョウなどはいずれも国指定の天然記念物であり、全国でも名立たる巨樹である。これらの巨樹以外にも、県内には数多くの巨樹がある。それらはしばしば御神木となり崇められている。巨樹があったから(やしろ)ができたのか、社があったから樹木が守られ、巨樹となったのかは定かではない
 そこには人の成し得ない悠久な生命の営みへの羨望(せんぼう)もあるのだろう。また、永年の風雪や病害虫、老化に耐えて、なおも(たくま)しく生きようとする巨樹の雄姿への敬意に似たものさえも感じる。さらにその根元に立つと巨大であるがゆえに見上げてしまい、枝葉にスッポリと包まれるおのれの様子に、母胎や浄土への回帰に似たものが彷彿とするのではないのだろうか。往々にして押し潰されそうになりがちな人の心に安寧(あんねい)をもたらすようにも思われる。
 さて、私が最も頻繁に訪ねるのは川古の大クスである。樹齢3000年といわれ、日本の古木の第5位に入る名木である。幹囲21m、樹高25mもあり、幹にはコケやシダ、キノコ、ランなどが着生し、鳥が小さな(うろ)に巣を作り、実をついばんでいる。かつて、僧・行基によって、胴部に仏像が彫られたといわれる。30年ほど前に初めて訪ねた時には、その姿に痛々しさを感じていたが、現在は胴部の枯死の進行を防ぐためにウレタンを埋め込んでいる。この保護策によって、樹勢は次第に回復しているようで喜ばしい。
 古木の中でも桁外(けたはず)れに大きな屋久島の縄文杉に初めて出会った際には、「おぉおぃ・・。来たよ。待っていてくれたね。」と、私はまるで人に対するように語りかけている。人間の有史よりもはるかに長い年月を生き抜き、様々な歴史を見続けた縄文杉には郷愁に似た愛着を感じてしまう。往復10時間の歩行をしなければ訪ねられない縄文杉からの帰路で、ある女性が「涙が出たっちね。」と縄文杉との出会いを熱く語る様に、私も頷いてしまうのである。

七 夕

うれしさや七夕(たなばた)(たけ)の中を行く    正岡(まさおか)子規(しき)

 

子供の頃には、七夕(たなばた)が近くなると心が(はず)んだ。笹に短冊(たんざく)を飾りつけた竹の下に、高膳(たかぜん)()え、母はそこに子供の好物であったスイカやおはぎを供えてくれた。翌日にはその供物(くもつ)を子供だけで独占して、おなか一杯に食べられた。私は短冊に記された母の言葉を読むこともなく、「ウナギやツガニがたくさんとれますように」「(さか)()がりができますように」というような他愛(たあい)もない文句ばかりを書いていた。それでも七夕の日には、七夕の意味や天の川が星の集まりであることを毎年のように語ってくれた。その上、七夕の日の願いは、いつかきっとかなうと母から教えられていたからたくさんのお願いをしていたのである。しかし無邪気な私は、まさに子規(しき)の心境そのもので、「うれしい」ばかりであった。七夕の夜に天空で繰り広げられる空想のロマンスも厳しい現実も知る(よし)もなかった。

さて、大人になって知った百人一首の中に次のようなものがある。

  かささぎの渡せる橋におく(しも)

      白きを見れば夜ぞふけにける  大伴(おおともの)家持(やかもち)『新古今和歌集』

 

 県鳥である「かささぎ」は、佐賀県とその近隣以外ではほとんど見ることができない珍しい野鳥であるため、佐賀県人として、この一首には(こと)(さら)に愛着を感じている。

この和歌の()み人が本当に大伴(おおともの)家持(やかもち)であったか、また何を意図しているのかに関しては、解釈に諸説あるところだが、「かささぎの渡せる橋」とは「天の川に()ける橋」であろうということは定説になっている。七夕の夜に、その橋を渡って、織姫(おりひめ)(ベガ)牽牛(けんぎゅう)(アルタイル)が年に一度だけの出会いをするのである。大伴家持が念頭においていたであろう朝鮮の七夕伝説には、「出会いの日に天の川が二人を分かち、二人の涙で地上は大雨(梅雨(つゆ))になってしまったことで、二人の思いを察した国王が、国中のかささぎを集め、天の川に橋を作るように命じ、二人の思いを()げさせた。よって77日には、地上には一羽のかささぎもいなくなった」というのである。

 そんなロマンに満ちた七夕伝説の発祥は中国であるが、朝鮮から日本へと伝わってきた。しかし、日本ではカササギの生息する佐賀県でのみ、織姫と牽牛は年に一度の逢瀬(おうせ)を繰り返すことがでるのかもしれないなと夏の夜空や天の川を眺めては、ひとり深い感慨に浸るのである。

 ちなみに、全国で行われている七夕祭りの多くは、梅雨による行事の変更の支障を予測して、77日に行うのではなく、旧暦で行ったり、ひと月ずれた87日に行われているようである。

 

佐歯会報(佐賀県歯科医師会・機関誌) コラム

「歯っぴー・スマイル」 掲載文

佐歯会報は年間 9回の発行。 県内歯科医師会会員と県内外の公的機関に配布。
私は2008.2月号から連続して執筆しています。友人の助言もあり、このHPにも掲載してみます。

明星桜

 

   願はくは 花の(もと)にて 春死なむ 

    その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)の頃   (山家集・西行)

 

平安時代末期の歌人・西行のあまりにも有名な和歌である。この(しも)の句は、釈迦の入寂(にゅうじゃく)した日(旧暦2月15日)を指すといわれる。

西行は1140年に23歳で出家している。その後は仏に仕え、各地を旅し、花や恋を歌う歌人として、若き藤原定家(ていか)と共に一世を風靡(ふうび)した。()しくも、まさに如月の望月の頃、文治6年2月16日(西暦1190年3月30日)に、73歳の生涯を閉じている。

さて、桜の古木として全国的にも知られる明星桜は伊万里市東山代町にある。明星桜は、エドヒガンという品種に近い桜で、葉が出る前に花が開き、花弁と花柄の間の萼筒(がくとう)が膨らみ、萼片(がくへん)鋸歯(きょし)があることを特徴とする。ソメイヨシノより数日早く開花する。例年それが「如月の望月の頃」に開花するのである。なお、現在花見の主役となっているソメイヨシノは江戸時代に品種改良され、全国に普及した桜の木にすぎない。

さらに、明星桜が、1150年前後にあえて京都の壬生寺(みぶでら)から伊万里に持ってこられた理由には、当時その花の美しさには定評があったはずである。これらのことを考慮すると、毎年明星桜の花の咲くころになれば、私と同じ花を見たであろう850年前の西行法師の面影を桜の花弁の陰に感じてしまうのである。

明星桜と共に京都の壬生寺から伝えられたといわれる「脇野の大念仏踊り」は、緩やかな所作を持ち、物悲しいまでに素朴な(かね)と太鼓の澄み切った響きの中で踊られる。

これらが京都からもたらされたことの背景には、とりもなおさず平安時代末期のこの時期に武家社会による全国各地の支配がすすみ、封建的な中央集権国家が確立していったことが(うかが)える。結果的に当地は松浦源氏によって支配されていくのである。

近隣での同じ時期の伝承として、武雄を居城とする後藤氏の支配下となった黒髪山に伝わる大蛇伝説がある。その信憑(しんぴょう)性はともかく、主人公は源為朝(ためとも)である。悪役の大蛇とは、それまで当地を支配していた地方豪族や寺社の僧侶たちであったのではないかと想像している。この大蛇にとどめを刺したのが、盲僧といわれる。盲僧とは旧来の価値観を否定した仏教であって、空也(くうや)などによって始まった新興仏教であったものと考えている。この新興仏教の影響は、明星桜とともに伝えられた大念仏踊りにも読み取れる。

ところで、明星桜は近年、里帰りして、京都の壬生寺に植えられたとのこと、西行も明治維新の直前に壬生寺を中心に活躍した新撰組の志士たちも再度、この美しい明星桜を眺めているのだろうという感慨に浸るのである。

2009.2月号 掲載

囲碁 談義

 

 囲碁は私の趣味のひとつである。今も隔月に一度、わが家を会場に、10数名が集まって、早朝から夜更けまで囲碁を打つ。上は七段から下は二級ぐらいが入り乱れて打つ楽しいひと時である。
「囲碁打ちは親の死に目に逢わない」といわれることもあり、きっと面白いに違いないと、30数年前から興味本位に囲碁を始めたのであるが、未だに高段者にはなれずにいる。私の実力はアマ二段である。
数年前に小学三年生と対局した際のことである。きっと強いはずであると予想しながら、対局した。予想は的中した。すこぶる強いのである。あっという間に負けたが、対局後相手から「囲碁を始めてどれくらいですか?」と聞かれ、「30年・・・」と小声で答えながら、私の悪手(あくしゅ)を教えてもらい、(こうべ)を垂れた。

 さて、囲碁のルールは極めて簡単であり、白石と黒石を交互に打つこと、相手が打った石を直後に取り返すことができない(コウ)という程度のものである。縦19と横19の合計361の盤面のどこに打ってもよいのである。勝負は陣地(じんち)の大小によって決まる。ただその陣地取りの際に、石の死活(しかつ)をかけた熾烈(しれつ)な戦いがあり、形勢を決める次の一手をどう読むかが、囲碁の実力といえる。その「読み」があるから、囲碁は静かな神経戦となる。
対局中は、独り言もよく飛び出す。間違った手を打った際に、「そうか、そうか」と()やむとき、相手は「草加(そうか)、草加は、千住(せんじゅ)(さき)」と茶化(ちゃか)すのである。勝ちを意識して余裕のある手を打つと相手は「カッタ、カッタと下駄(げた)の音」と牽制(けんせい)する。石を飛び飛びに打って「一間(いっけん)飛びに悪手(あくしゅ)なし」と自分の手を慰めると、相手は間を切ろうと(のぞ)く、「覗きゃババァでも(まえ)(かく)す」と下品なことをいって相手の手を封じたりもする。このように囲碁では、あまり品位のない会話も多い。「殺す」「死ぬ」「いじめる」「()つぶし」「頭をはねる」など、ちょっとビクッとするような言葉も使われる。
囲碁独特の用語や格言、ことわざも多い。「セキ」「シチョウ」「模様」「二(りつ)(せき)」「七死(ななし)八生(はっしょう)」「五(もく)中手(なかで)」「隅の曲がり四(もく)」「櫛六(くしろく)」「打って(がえ)し」「鶴の巣篭(すご)もり」などの言葉にも、それなりの意味があり、初心者でも、それらを理解するだけで相当に上手くなるはずである。しかし、いざ対局となると応用が利かないのが凡人の常である。
ところで、囲碁は4,000年前に中国で考案されたものであり、5世紀には朝鮮を経由して日本に伝えられたといわれる。奈良の正倉院には紫檀(したん)で作られた碁盤が納められている。また、平安時代の源氏物語絵巻にも宮中での囲碁の対局風景が描かれており、古くから広く親しまれていたことが伺える。近年は「ヒカルの碁」という漫画の影響もあって、若年者の愛好家も増えている。また、ルールの単純さもあって世界中に広まっていることは嬉しいことである。
なお、今日の碁盤では、針葉樹の大木である「カヤ」がもっとも好まれる。碁石では、那智(なち)(ぐろ)といわれる黒石、日向(ひゅうが)ハマグリでできた白石が好まれるが、国内ではハマグリの大きなものが少なくメキシコ産のものが広く出回っている。
岡目(おかめ)八目(はちもく)」や「駄目(だめ)」なども囲碁から生まれた言葉である。私たちの文化に古より深く浸透していたことを今更ながら感じているところである。

黒髪山を歩く

私は、学生の頃から、九重などの山歩きが好きだった。しかし、開業後は、歯科診療に追われる日々が続いた。そんな日頃の運動不足とストレスを解消するために、10数年前から山歩きを再開した。一時は屋久島などを含めて九州各地の山を歩き、北アルプスや尾瀬などにも数回遠征した。遠くまで行くことで仕事に支障をきたしてはならず、次第に、自宅近くの黒髪山系を頻繁に歩くようになった。しかし、何度も同じ山を歩くと少々飽きてくるものだから、しばしば、道の無いところもかまわずに歩くようになった。

その黒髪山で出会った美しい風景や植物、動物などが、折々に様々な姿を見せてくれるため、一層楽しくなっていった。その都度撮った写真の数も増えてきたため、写真の整理もかねて、ファイルを作り、名前を入れていった。買ったばかりの図鑑で野草や樹木、シダ、キノコ、野鳥、昆虫などの名前を調べていくことに、新しい発見をしたような錯覚を感じていた。

そのうち山歩きの友人から「動植物や風景の写真のきれいなものもあるから、歯科医院の待合室用のアルバムにでもしたらどうだろう?きっと患者さんにも喜んでもらえるよ」という助言をもらい、すぐに本気になり実行したのだが、現実には患者さんにはあまり見てもらえなかった。やはり自己満足の写真だけでは不十分で、以後も試行錯誤を続けた。

ところが、4年前に岩登りをしている際に、スズメバチに刺された。結果的には私の体質がハチアレルギーと分かり、一旦は山歩きも写真撮影も断念してしまった。その後は思い直して、無理をせずゆっくりしたペースで雨降りや曇天の日、冬場を選んで歩いた。私の歩ける時間的な制約もあり、さほど無理なく撮影できた植物に重点を置くこととした。どうせなら、もう少ししっかりとした植物だけのアルバムにでもしてしまおうと考えた。

まず取り付きやすい野草から入った。しかし、黒髪山系は全体的には照葉樹林であり、樹木がないとやはり不自然かなぁという思いと、カネコシダがあったからこその黒髪山だろうという思いもあり、樹木とシダにも積極的にアプローチすることにした。それまで樹木やシダの初歩的なことさえも知らなかった私には、決して安易な世界ではなかった。それでも、土日には山を歩き、夜には、その植物の名前や特徴などを図鑑で調べて、ひとつひとつ積み重ねていく作業をした。結果的に、黒髪山系に自生する野草と樹木、シダでの合計約400種程度の植物の写真とコメントでまずアルバムを作ってみた。そのうちには県内ではかつて発見されたことのなかった植物、絶滅していると考えられた植物などにも数多く含まれていたことに気をよくした。

ともかく、植物の専門家でもない私のような歯科医師が、ただこつこつと歩くことで出会った植物のことを、歯科医院の待合室のアルバムにとどまらず、もっと多くの方に広く見ていただけたら嬉しいなぁと思うようになってきた。そこで3年ほど前から、ライフワークとして、黒髪山系の植物図鑑を作ることを思い立った。それが今月下旬には、『黒髪山系の植物』(不知火書房・A5版・フルカラー260頁・掲載植物563種)という本となり、書店に並ぶ予定である。黒髪山系の豊かな自然が一層多くの方々に親しんでいただけることを願って綴った本である。

ほ た る

 

梅雨の到来を間近に感じる頃になると、家の周りでは決まってホタルが飛び交う。前の用水路にも、裏の小川にも現れる。田舎の夜の静かな風景である。

神戸から来ている幼い孫に催促(さいそく)されて、夕餉(ゆうげ)ののちに小川の縁を歩く。遠くに見える家々のほのかな明かりを除くと天空に広がる星と天の川だけの静寂な漆黒(しっこく)の世界である。その小川のまわりでホタルは明かりを灯しながら、波形の長い軌跡を描いて飛び回る。川面(かわも)の近くを飛ぶ際には、川面が鏡となり鏡像を作る。実数以上のホタルの乱舞は幻想的で美しい。ふとした瞬間にホタルが視界から一斉に消える。雄は明かりを灯すことで性への衝動が満たされる雌とともに草陰に忍んだのであろうか?

「ホタル いなくなったねぇ。」と話しかけると、長編アニメの『()()るの墓』がお気に入りの孫は、「なんで、ホタルすぐ死んでしまうん?」と、アニメのセリフを悲しそうに反芻(はんすう)する。

確かに、ホタルの発光期間は短いが、さほど早く死ぬものではない。ダンボール箱に草を敷き霧吹きでまめに水やりをすると発光はしないものの2週間ぐらいは生きてくれる。ただ成虫は幼虫の頃の食餌であるカワニナも全く食べない。水だけで生きているのである。

暗闇の中で人の深呼吸ほどのゆっくりとした周期で光り、静かに発光し相手をさがして交尾する。程なく産卵することだけが、ホタルの成虫の使命であろうか?その消え入るような美しさとはかなさを人の生き様に投影し、また感傷を誘うために様々な文学や映画に登場する。

たとえば、宮本輝『蛍川』(芥川賞受賞作)の中では、数万のホタルが人の周りで人形(ひとがた)に集まり、閃光となって滝壷に消えていく様子を美しくまた繊細なタッチで描いてみせる。また、鹿児島県知覧を舞台にした映画『ホタル』では、突撃前夜に特攻隊員が「明日の夜にホタルになって帰る」といって旅立つ。次の夜に予告どおりにホタルが食堂に現れたという実話に基づく。ともに夭折(ようせつ)していく切ない悲しみをホタルに託したものと思われる。

しかし、『源氏物語25帖 蛍』ではホタルの捉え方が現代とは違っているのである。ホタルは光源氏の戯れの道具となり、夜の逢瀬(おうせ)の際の照明としての認識にすぎない。勉学奨励の手本とされた「蛍雪」もまた照明としての評価であろう。照明の少ない時代と豊かな今日とでも、また人のおかれた状況によっても、ホタルの捉え方は様々である。

ところで、昨年のノーベル賞受賞者下村修博士のクラゲの蛍光物質の研究は注目を浴びた。クラゲとは異なるものの、ホタルの蛍光はルシフェリンという蛍光物質とATP(アデノシン三リン酸)の作用によるという。この発光原理を応用し、今日では様々なものが開発されている。ホタルから授かった恩恵も多いのである。

ちなみに、佐賀県では、5月下旬から梅雨前ぐらいまで光の強いゲンジボタルが見られる。初秋まで見られる光の弱いホタルはヘイケボタルという。

2009.3月号 掲載

    野草 談義

 かつては、春の七草や秋の七草などの身近な野草の名前さえ知らなかった。日頃の診療から解放される癒しのひとときだと思って、自宅近くで、野草の観察を始めて5年程になる。よく歩く道端にさえも、ゆっくり立ち止まって観察してみれば実に数多くの野草があるものだなぁと感心している。今の季節に見られるスミレ、淡い紅色の小さな花を持つホトケノザ、何とも意味深な名前を持つオオイヌノフグリ、ちょっと華やかなオドリコソウ、夏に咲くヘクソカズラ、カラスウリ、ボタンヅル、秋に咲くゲンノショウコ、ヒガンバナ、ヨメナなどは、何処にでも生えていて美しい。そんなありふれた野草の和名の由来や特色などを図鑑で調べてみると面白くなり、一層興味が湧いている

 例えば、和名の由来に関しては、スミレは、大工道具のひとつで、木材の上に糸をはじいて墨を付ける「墨入れ」に、スミレの花の形状が似ることに由来している。
ホトケノザは、茎のまわりを蓮に似た小さな葉が取り囲んでいる様子を、仏様が座る蓮華座に見立てたのが和名の由来である。オオイヌノフグリは、犬の陰嚢という意味であり、花の後にできる実の形が、陰嚢によく似ることによる。ヘクソカズラは、紅白のコントラストの美しい花であるにもかかわらず、茎や葉をもむと糞尿の臭いがすることが和名の由来である。不名誉な名前である。

 こんなふうに他の多くの野草の和名にも、ひとつひとつの物語があって楽しめるのである。
 最近では、野草の中でも、食虫植物の面白さにはまっている。食虫植物は特異な進化を遂げたもので、種の多い熱帯地方にのみ自生するものと思っていた。さらに、私たちの身の回りでは、生物の世界では、食物連鎖の頂点にいるのは、当然のように動物であるとの思い込みが強かった。ところが意外に身近なところにも食虫植物は自生している。モウセンゴケ、イヌタヌキモ、ミミカキグサなどの食虫植物は佐賀県でもさほど珍しい植物ではなかった。例えば、モウセンゴケは、葉にべとべとした粘液の出る腺毛を持ち、虫を捕まえて、分解酵素を出して消化する。イヌタヌキモやミミカキグサは湿地や水中に水中葉や地下茎を伸ばし、捕虫嚢といわれるもので、ミジンコなどの昆虫を捕まえて食べる。他にも、腐生植物といわれるギンリョウソウ、ツチアケビ、ムヨウランなどは、被子植物としては珍しく葉緑素をもたない。面白い生態を持っている。次々と興味は尽きない。

 最後に、私の友人で、樫原湿原を守り、湿原の案内役もされてある丹羽昭一さんの話を紹介する。二、三年ほど前の話ということなのであるが、家族連れで見学に来られた方を案内している際に、モウセンゴケのことを説明しているとその家族の内の小学二年生くらいの女の子が突然大きな声で泣き出した。困ってしまい、
「どうしたの?どうしたの?」と尋ねてみると、

「虫さんが可哀そうぅ・・」と。苦しまぎれに、
「お嬢ちゃんも、お父さんやお母さんもみいぃーな、お魚やお肉やお野菜を食べるでしょう?それと同じなのよ。この草も虫さんを食べないと生きていけないんだよ・・・」と。
女の子は納得した様子もなく、涙のあふれた目でモウセンゴケをにらんでいたというのである。

2008.4.5月号 掲載

あじさい 

 

庭のアジサイが咲き始めた。花の少ない初夏には貴重な彩りである。暑さが増すにつれて成長する枝の頂に大輪の花を付け、一雨ごとに、薄い黄緑色から白色へと変わり、まもなく淡い水色から青色を強めていく。後半には、次第に青紫色から、紫色、赤色、淡桃色と変化していく姿はとても興味深い。中には初めから橙色や黄色のものもあり、多彩である。アジサイの七変化する様子を正岡子規はうまく表現している。

紫陽花(あじさい)  はなだにかはる  きのふけふ    

 この色の変化は、化学的には、アントシアニンと補助色素、地中のアルミニウムイオンによって決まるとのこと。酸性土壌であれば、アルミニウムがイオン化しやすく青色となり、アルカリ性土壌であれば、イオン化しにくく、赤色が強くなるという。

数年前、私の植物の師匠である茶花の先生は、診療台から窓の外の庭を眺めて、「知っています?あのアジサイのことを。オランダでは、オタクサと呼ぶそうですよ。アジサイを日本から持ち帰ったシーボルトは、愛した長崎女性の「お滝さん」を偲んで、そう呼んだんですって。そうそう。長崎のお菓子にも、オタクサというのがありますよね。」

それまで、アジサイはすべて園芸種と思い込んでいた。現実には日本からヨーロッパに持ち出されて改良され、逆輸入されたものと本来の自生種とその改良種が混在するという。セイヨウアジサイは元々、日本産のアジサイであったようで、ちょっと嬉しくなる。

さて、調べてみると確かにシーボルトは数多くの植物を持ち帰っている。アジサイはそのひとつに過ぎない。帰国後に出版した「日本植物誌」では、アジサイのことをHydrangea(ハイドランゲア) otakusa(オタクサ) Siebold(シーボルト) と命名している。アジサイのことを日本ではotakusaと呼んでいるからというのである。事実ではないこの命名理由に、牧野富太郎はシーボルトが愛人の名前「お滝さん」を学名にしたと非難しているのである。

では、数多くの日本の植物を新種として発表したシーボルトにとって、何故アジサイが「お滝さん」であったのだろうか。

アジサイの花は、手のひらに余るほどの大きさでお茶碗型の花の形状と花全体の柔らかさを持つ。さらに膚色をした時期のアジサイに、日本女性とりわけ「お滝さん」の乳房を重ねたのではなかったのだろうか。そのうえ雨の滴りとともに妖艶さを増し、美しさの中にも移ろいやすい花弁の色にも女性を連想したものと推測するのはあながち間違いではないのかもしれない。

ところで、唐津市相知町の「見帰の滝」のアジサイは、株数の多さもさることながら、滝の景観も相まって見事である。このアジサイに因んで、同町出身の歌手・村田英雄をしのぶ「あじさい忌」が6月中旬に催されたという。村田英雄と同じ年の私の母もアジサイがお気に入りである。例年この時期に、「見帰の滝」を訪ねることを楽しみにしていた母は今年、病の床についた。来年にはともに見ることができることを願って、病室の枕元の花瓶に庭のアジサイを生けているのである。

2009.7月号 掲載

2008.10月号 掲載

2008.8.9月号 掲載

樹と遊ぶ

 

 日頃の運動不足とストレスの解消のために、しばしば山を歩く。確かにどの山でも登頂することで、達成感が満たされるし、山頂からの展望には爽快感がある。しかし、何度も同じ山に登ると是非山頂を踏破(とうは)したいという欲求が次第に薄れてくる。そうはいいながらも今でも休みの日には自ずと山の中に入ってしまう。山に(いや)されにいくのである。近年の私の山歩きは登山というよりも森林浴といえる。

 佐賀県内では、背振山系の金山(かなやま)雷山(らいざん)の近くの広大なブナ林と林床に広がるミヤコザサの中を北斜面から吹き上がる風をここちよく感じながら歩くときや、多良山系のシャクナゲやマンサクの花の中を歩くときなどには(こと)(さら)に満たされた気持ちになれる。

日頃の山歩きでは、登山道の脇に生える椿(つばき)やスイカズラ、ヤマツツジの花の蜜を吸い、木苺(きいちご)やウベ、アケビ、(しい)、ヤマモモ、シャシャンポ、ムクノキ、トキワガキなどの実を食べながら歩く。意外に美味しい。中でも、トキワガキの熟した実は羊羹のような上品な味がする。それを大木の根に腰を下ろして、和菓子の楊枝(ようじ)に使われるアオモジの枝で差していただく。美味しさが際立つ至福(しふく)のひと時である。

 イスノキという常緑樹には、葉に住み着いたアブラムシが、しばしば「(ちゅう)えい」というすみかを作る。虫が出た後には、硬い卵型の殻が残り小さな穴が開いている。これが意外にどこにでもあり、格好の笛になる。「虫えい」の形状によって様々な音色が出て面白いのである。この樹のことを、方言では「ヒョンノキ」とか「ホーホーノキ」というのがうなずける。

 樹林下の至る所に生えるイヌビワの実は小型のイチジクのようにしている。その実は食べても美味しいが、よく見ると実の中には、幼虫がうごめいていることがある。イヌビワコバチといわれるもので、(おす)はこの小さな実の中で過ごして短い一生を終わる。(めす)は外界に出るのである。イヌビワの実を見るたびに、悲しい雄の一生が想起される。

秋には、さまざまに色付いた落葉を集めてみる。特に、カエデやクスノキ、ウコギなどの仲間は、色や形状が多様で面白い。家に持ち帰り   ビニールシートでラッピングをして、本のしおりなどにして楽しんでいる。人にあげても喜んでもらえる。

また、イブキジャコウソウなどの葉を数枚いただいて、手帳にはさんでいるといつまでも甘いハーブのような香がして心地よい。

ツルや松ぼっくり、どんぐり、ネムノキの豆などを集めてきては、飾り用のリースを、家内と一緒に作っている。

このような遊びも童心に帰ったようで楽しいのであるが、危険な思いを何度もした。落葉集めに無心になっていると葉の下にマムシが隠れていたり、ちょうど手頃なツルだと喜んでいるとツタウルシという強烈にかぶれるものだったり。抹香(まっこう)のようなよい香がする葉で、美しい花を咲かせる樹の写真を撮って、家に帰って調べてみると、すべてが猛毒のシキミだった。少し噛んでいたため、背筋の冷える思いがした。

 ただ、私は樹林の中で、全身にマイナスイオンを浴び、野鳥やカジカ、セミなどの鳴き声を聞き、渓流のせせらぎと()の葉のそよぐ只中(ただなか)にいるだけでもこころが洗われるのである。

2008.6月号 掲載

ホトトギス

 野鳥のホトトギスの名前は以前から知っていたものの、長い間、鳴き声を聞いたことも、姿を見たこともなかった。架空の鳥であるか、今はほとんど見ることのできないコウノトリやトキと同じような絶滅に瀕した希少な鳥であるのかもしれないと想像していた。しかし、今日(こんにち)でも俳句や短歌で頻繁に(うた)われているのである。

半信半疑で、ウグイスとの誤認ではないのかなぁということを数年前に日本野鳥の会の友人に尋ねてみた。「ホトトギスは、本州に多い渡り鳥であり、九州ではさほど多くないが、決して珍しい野鳥ではなく、姿も鳴き声もウグイスとは全く違う」との回答であった。初夏の朝夕に「テッペン()けたか」「特許(とっきょ)許可局(きょかきょく)」と鳴くのですぐわかると教えられてもなかなか鳴き声が耳に入らなかった。どうにかして鳴き声を聞きたくて、野鳥図鑑とCDを買い、目と耳を慣らした。

ところが、一昨年の初夏に父が()った日のことである。父をめぐって様々な思い出が去来し、沈鬱(ちんうつ)に浸っていると、教わった通りの「特許許可局」というホトトギスの鳴き声が初めて耳に入ってきた。ホトトギスの初音が一層私の悲しみを誘うのであった。日頃聞こえない音も、時として心の琴線(きんせん)に響くもののようである。それからは毎年の命日の頃には、ホトトギスの初音を聞くのである。

夏の夜の 夢路はかなき (あと)の名を

雲井(くもい)にあげよ 山ほととぎす     勝家

さらぬだに うち寝るほどの 夏の夜の 

別れを誘ふ ほととぎすかな     お市

 安土桃山時代に、豊臣秀吉に討たれた柴田勝家と織田信長の妹・お市の方の辞世の句である。1583年6月13日夜の越前「(きた)(しょう)」でのホトトギスの鳴き声が彷彿(ほうふつ)とする。
古来、ホトトギスはしばしば歌に詠まれた。その歌の数はウグイスやカリ(雁)よりもはるかに多いといわれる。時鳥、不如帰、杜鵑などとホトトギスに当てる漢字も多い。

またホトトギスは、口の中が赤く、血を流してまで、夜も昼も鳴き続けると考えられていたようである。悲しみを誘う鳥としてだけではなく、恋の鳥としても有名である。夜から朝まで鳴き続けることによるのであろうか?

「百人一首」の一枚札で知られる

     ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば

           ただ有明の 月ぞ残れる     藤原実定

ところで、ホトトギスは鳩ほどの大きさの初夏に飛来する野鳥である。ウグイスを春告(はるつげ)(どり)といい、ホトトギスを夏告(なつつげ)(どり)とも呼ぶ。また、ホトトギスはウグイスの巣に卵を産み、卵を抱かせ、子育てまでさせてしまうという関係(托卵(たくらん))にあり、面白い。さながら現代版の育児放棄である。同じ仲間のカッコウも托卵する。カッコウとホトトギスは姿が似ているため、かつては同じ鳥が鳴き分けているものと思われていた。

ともかくホトトギスの鳴き声は、繊細な心の動きのあるときに、しばしば私たちの心に共鳴するもののように思われる。

山菜を食べる        

 

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、

すずな、すずしろ、これぞ七草。

 

春の七草を詠った有名な古歌である。正月7日に、無病息災を願って、これらを食材として七草(がゆ)を作って食べたことに由来するという。しかし、正月の頃には、「せり」も「なずな」も芽吹いていないため、他の山菜で代用しているようである。「せり」や「なずな」も含めて、山菜の季節はやはり春である。

私も昨今は山菜採りにはまっている。山菜の採取方法とレシピは有田の向弘之先生と先生のお母様に教えてもらっている。今年も早春からいろんな山菜をよく食べた。2月には「フキノトウ」、3月には「ツクシ」、「セリ」、「ツワブキ」、「ニワトコ」、4月には「ヨメナ」、「ワラビ」、「ゼンマイ」、「ダラノメ」、「ヨモギ」、春の山菜採りは5月の「フキ」、「コシアブラ」、「タケノコ」、「ウド」まで続く。それに初夏の「ジュンサイ」で山菜採りの前半を終わる。

山菜採りに出かける際には、高枝バサミと採った山菜が煮えないような紙袋を持って出かける。山菜はアクの強いものが多く、仕事柄、アクによって指先を黒くするわけもいかず、手袋をする。この山菜のほろ苦いアクが、食卓に春の季節感を演出してくれる。アクの抜き方や程度まで含めて、レシピは人により様々である。

今年賞味した「フキノトウ」はアクを抜かずに天ぷらにしたが、なかなかの絶品である。他に、ふき味噌も美味しい。「フキノトウ」を小さく微塵切りにしたあと、山椒のスリコギですって、味噌と混ぜてフライパンで焼くと、ぴりっとした独特の苦味のある酒の肴ができる。

「ヨメナ」は、古くから若菜摘みの草として知られる。芽生えて間もない若菜をご飯に混ぜ込むのである。(よめ)()(めし)という言葉もあるほどに、春の香りの漂う美味しいご飯となる。他に、あえものや油いため、お吸い物にしても美味しい。

昨年の4月下旬から半月ほどの間、「ウド」を毎日のように食べた。「ウド」にはアクが少ない。葉はてんぷら、茎は酢の物やお吸い物、きんぴら、ピクルスと多彩な利用ができる。そのうえ独特の香りと歯ざわりも伴い美味しい。「ダラノメ」などに比較しても調理の幅も広く、メタボ対策にも格好の食材である。山菜の王様は「ウド」と言っても過言でない。

夏場は山菜が少なくなり寂しいが、「ジュンサイ」採りは面白い。北国特産と思われている「ジュンサイ」が、意外に佐賀県にも多い。採取方法は胴長を履いて、沼に入り、まだ開いていないトロッとした粘質物に包まれた幼葉を水の中で指の間に挟んで採るのである。浮かべた洗面器に集まるこの高級食材に食べる前から満足してしまう。味はともかく食感がいい。お吸い物が一般的であるが、食感からすると、酢じょうゆやダシ汁に浸して食べることをおすすめしたい。

今年の最大の目標は「タケノコ」である。それも地表に頭を出す前のアクの全く無い「タケノコ」である。皮ごと焼いて刺身で食べてみたい。イノシシだけに贅沢をさせてはならないと思いつつも、探し方さえわからず、未だに食べたことがない。

山菜は自分で採ったことでもあり、欲張って一度にたくさん食べ、おなかをこわしてしまうことも稀ではない。おなかをこわす原因は若芽のアクであり、苦味(くみ)質と呼ばれる。この苦味質には、テルペンやサポニン、アルカロイドなどの物質が含まれる。これらの物質を合成することで、植物は幼弱な若芽を病害虫や動物から守っているといわれる。人間だけは、植物の作る苦味質や毒素を巧みに加工・処理して、季節の味わいを享受しているのである。

2009.1月号 掲載

2008.11.12月号 掲載

遍路道を歩く

 幼少の頃から、毎年の春秋の彼岸の前になると「ヒサカキ」の小枝を数本採ってきた。母はこの小枝の先端を折り、そこに米粉で作って桃色や黄色に染めた小指の頭ほどの団子をいくつも差して、「彼岸芝」を作った。それを家の前のお堂の薬師様に供えるのである。程なく数十人の「お(めぐ)りさん」の一行がやってくる。菅笠(すげかさ)に白い法衣という独特の姿である。手には数珠(じゅず)と鈴と杖を持っている。お堂の薬師様の前に立つと笠をはずし、手を合わせて、鈴を鳴らしながら、お経を唱えるのである。そのお経が「般若心経」であることを知る由もなかった。お経が終わると、近所の人が集まって、接待が始まる。お茶やおにぎり、お菓子、饅頭などが縁台に並ぶ。「お巡りさん」は、前の札所(ふだしょ)でもらったお菓子や饅頭を周りに集まった子供たちに施すのである。それが私にはとても楽しみであった。それにしても脇に置かれたどの笠にも、四角のどの杖にも「同行二人」と書いてあるのが、不思議でならなかった。

「おばちゃん。たくさんでお参りに来ているのに、なぜ同行二人なの?」

「そうね。一人は私のこと。もう一人はお大師様(弘法大師)なんだよぉ。歩いているのは私一人ではなく、いつもお大師様と共に歩いているという意味なんだょ。子供なのに面白いことを尋ねるねぇ・・・。それにしても、坊やは人生に苦労するのかもしれないけれど、まっすぐに歩くんだよ。そのうち、きっと良いことがあるから・・・。」と、火傷の痕の残った私の前頭部と右頬を(いつく)しむように()ぜてくれた。しかし、そのおばぁさんの言葉の意味や行為が幼少の私にはわからなかった。

 二十歳になった時、人並みに、自分自身の在り方に戸惑い、「般若心経」や「歎異抄」、「新約聖書」などに活路を見出せないものかと悩んでいた折、なんとなく、あの「お巡りさん」のおばぁちゃんに会ってみたくなった。早速、春の彼岸に「お巡りさん」の一行に参加してみた。日出から日没まで、厳木町から相知町までの遍路道で「般若心経」を唱えながら札所を歩いた。結局、あのおばぁちゃんには会えなかったため、場所を変えて、篠栗四国霊場を2泊3日で歩いた。南蔵院から若杉山山頂の奥の院などの八十八ヶ所の札所を経て、再び南蔵院に戻るという巡礼を終えても、私の「戸惑い」は解消されたわけではなかったが、今までにない心の平穏が得られたように感じた。

 私の巡礼から早35年の歳月を経た。今、当時の私と同じ年齢に達した息子たちが歩き始めた歯科界の今後を眺めていると、全体的に明るさに乏しいように思われてならない。このような点を踏まえて、再び息子たちと共にしっかりと足元を見つめながらかつて私の歩いた遍路道を歩きたいものである。そうすることでも、将来への展望を地道に切り開いていくことを期待している。

なお、「お巡りさん」のコースは、新四国八十八ヶ所巡りと呼ばれた。弘法大師の開いた四国八十八ヶ所を模して、全国に広がった巡礼コースのほんのひとつに過ぎない。幼少の頃に出会った「お巡りさん」は、小城、多久、厳木、相知、大川野、若木をきめ細かく巡って、小城に戻るという意外にも長大なコースである。県内には他にいくつものコースがあったといわれるが、今日ではすっかり廃れてしまったようである。ただ、篠栗四国霊場は今も多くの人が歩いている。

2008.7月号 掲載

2009.6月号 掲載
2009.4.5月号 掲載

凧を揚げる

 幼い頃はよく(たこ)を揚げた。松浦川の土手が凧揚げのお気に入りの場所であった。冬場には玄界灘からの寒風が、松浦川を伝うように、川下から川上に向かって吹く。その風が土手の上では斜面を駆け上がる上昇気流となるために、糸巻きを持って少し走るだけで、凧は揚がった。

市販の凧は軽くて丈夫なことと全体のバランスも考えられていたために、平地でも容易に揚がった。私は貧しかった父母にねだることもできず、手作りの凧で遊んだ。モウソウ竹を細く割って薄くしたものや、オカメザサの枝を曲げて骨組みを作りそこに新聞紙を貼る。左右の重量と紙面の広さのバランスを考えて作るのであるが、そもそも凧の原理もわからないまま、見よう見まねでやっていたに過ぎず、なかなか上手くいかない。実際に作ったものを揚げてみるとクルクル回って一気に墜落するものが多い。他には、左右に大きく揺れるもの、真上に揚がるもの、地面を這うものなど様々である。中でもクルクル回るものには、しばしば二本の尻尾を付けた。そうすると意外にブレなくなるのである。この長い尻尾のある姿が干しダコに似ているために「タコ(蛸)」というのだろうとずっと思い込んでいた。

さて、凧の揚がる原理から飛行機が考案されたことは有名な話である。風を受ける力の一部が揚力となって凧は揚がるのであるが、そんなに難しいことに興味があって凧揚げをしていたのではない。

福岡市の詩人・鈴木召平さんは、終戦前に少年期を過ごした釜山での思い出を長編抒情詩『墓山の凧』に著わしている。足にバネを付けたように飛び回っていた釜山の裏山で飛ばした凧への思いを綴っているのである。そんな少年のような気持ちを忘れない鈴木さんに会いたくなって、30年ほど前に会いに行ったことがある。やはり子供のような純粋な人だった。凧の詳細や風、空のことを止めどなく語ってくれるのである。その鈴木さんは、今も新羅凧を揚げているという。いつまでも少年のような気持ちを忘れない在り方に何とも羨ましい思いがしてならないのである。

雷が電気であることを証明したのも凧揚げによっているという。多くの人が感電死しているようであり、気を付けたい。

北部九州を中心に、いろんな山の山頂で凧揚げをしている面白い人がいる。自称「凧」と名乗る方であるが、凧に小型カメラを付けて上空から山頂の風景や山並みの風景を撮っているのである。


(文書データの後半が消失・・・・・今後回復予定)